健康のためなら、死ねる

黄昏が綴る、日々の雑記

動きがなければ、死んだに等しいのではないか、ということについて

先日より、義実家を畳む作業を続けている。

捨てる物の量は甚大で、45Lのゴミ袋が次から次にパンパンになる。

 

進み具合は、当初の思惑より進んでいない。

休職中の私はいわば「毎日が日曜日」なのに。

それはなぜかと考えてみたりした。

 

義実家の時間が止まっている

義母の様子がおかしくなっていったのは2022年の6月頃から急激に、だ。

色々な経緯があって、介護施設への入所が2022年の年の瀬。

つまり、住まいの中の空気はその辺りの時期から停滞している。

住まいの主人が常に横になっている、少しづつ痴呆が進んでいくような状態なので

だんだんと品物の出し入れや動きがなくなっていっているのは訪れるたびに把握していた。

 

空気を入れ替えたりなどをしていないはずなので、独特の「義実家の匂い」がする。

この匂いが、どうにも好きになれないのだ。

次々と運び出す品物は、どれもどれも「義実家の匂い」を帯びている。

 

どの程度に強烈かというと、義実家から運び出したコーヒーフィルターを使うと、

コーヒーの味が義実家で出されるコーヒーの味になる、という程である。

(つまり、申し上げにくいことに、義実家で出されるコーヒーはいつの頃からか美味しくなかった。

それは妻も把握していて、むしろ妻から私に美味しくないよね?と、同意を求められるありさまだった)

 

そして、私自身も現在うつ病での休職中なので、あまり心身に負担のかかることをしたくない。

義実家の時間が止まった空間というのは非常にエネルギーを奪うように感じている。

 

空間の時間が止まっているというのは、すなわち死んだ空間に等しいと思う。

 

妻が意外と積極的じゃない

自分の実家だから、もっと能動的にやってほしいところではあるのだが…

実家だからこそ、気が向かないのかもしれないなとも配慮している。

長い期間、家族と共に暮らしてきた空間が、既に役目を終えて真っさらになっていく様は

多少なりとも寂しさを覚えるものだろう。

自分が自分自身の実家を整理することを考えると、結構苦しい物がある。

 

また、何より、義母自身の状態も気になる。

彼女自身の仕事もある。旦那である私は鬱病で休職している。

息子は発達障害の傾向があるため、子育ても色々な配慮を欠かせない。

 

などなどの理由で、妻にあまり強く片付けの催促ができない。私がやれることは私がやらなければならない、そういうタイミングであろう。

 

我が身を振り返ってみる

さて、我が身を振り返ってみるとどうであろうか。

 

書棚はどうだ。並んである書籍は最近読んでいるか?

読み返す必要のある本はちゃんと定期的に読み返しているか?

期待はずれだった書籍がそのまま書棚に収まっていないか?

新たに買い足して読むべき本は入ってきているか?

 

自宅に保管してある書類、本当に保管しておく必要ある?

既に役目を終えている(ハウツーが身についている)ファイルとかはもう捨てていいんじゃない?

紙媒体のデータは、動いてない可能性がないか?

 

PCのデスク周りはどうか。

はっきり言って、もうガジェットが増えすぎて収拾がつかなくなっているじゃないか。

Mac,WindowsそれぞれにそれなりのスペックのPCをノートで所有して、既にデスクに常にいるわけでもなく、事実上の家庭内フリーアドレス制になってしまっているよね。であれば、自宅内フリーアドレス制に準じた環境を整えて、構想から外れたアイテムについては処分してもいいと思われる。

 

時計のコレクションはどうか。

必要な時計なんて数本あれば十分と、内心気づいているくせに、コレクションを分散させたくないという執着だけで持っているのではないか。現に、コレクションボックスを導入して並べておく構想があったにもかかわらず、コレクションボックスを買おうとしないのが何よりの証拠ではないか?

 

ヘビーローテーションで使う意味合いが、今と今後に繋がるモデル以外は、もう所有にこだわる必要ってある? それでなくともAppleWatchだけで時計の用は足すわけで… ガジェットヲタク的には wena wristだって試したいんだから、コレクションにこだわる意味はもうほとんどないことを認めるべきだと思わないか、俺?

 

時代の移り変わりを考えると、当然の帰結

とまぁ、私自身のうつ病による休職と、義実家の整理を通じて、現自宅についても1箇所づつ手を入れたりする日々の中で「物が動いていないというのは、死んだに等しいのではないか」、と思うようになった。

死んだに等しいものを大量に抱えていても、単に所有品が多いというだけで全く恵まれてもいない。

この考え方は、スピリチュアル界隈でよく言われている「風の時代」の傾向と一致する。

(「風の時代」とは約200年に一度起きる大きな星の動きを指していて、 木星土星は約20年に1度大接近するのですが、西洋占星術ではその10回目、つまり約200年に1度、エレメントというものが変わるとされている。「風の時代」は“目に見えるモノ”から“目に見えないモノ”に価値をおく時代に変わる時代といわれる。)

今私が毎日感じている「動きがなければ、死んだに等しいのではないか」という感じ方は、根拠までは言いようがないけれど、おそらく当たっているという確信めいたものはある。