健康のためなら、死ねる

黄昏が綴る、日々の雑記

共働きで家事を続けていくこと、生活を維持していくことについて

連日、妻は週5勤務、私は休職中ということで、最近は基本的には家事を私がするようになってきている。

我が家は「気がついた方が家事をする」制なので、妻が休職中の私に甘えれば自動的に私が多く家事をすることになる。

ところが、私も単に休んでいるわけではなく、うつ病による休職なので時々全く何もしたくなくなる時がある。昨日がまさにそれで、ほぼ1日中布団にくるまり横になっていた。

 

ご飯の準備を朝昼夜、朝昼夜…と繰り返すわけだが、そのサイクルの中で外食する予定はないけれど、作る気力も全くわかない…ということがある。

そんなわけで昨日はビザを頼んで済ませてしまった。

 

そして今日、私は確定申告でちょっとやることがあったので、終日ほとんど家にいなかった。

ほぼ、丸二日自宅で家事をしなかったということになる。

 

家族が生きていく限り、住空間はどんどん散らかっていく。

「気がついた方が家事をする」制は、どちらかが全然家事をできなくなった際に一気に家事は停滞してしまうという欠点がある。

 

今こうしてパソコンに向かってテキストを打っているわけだが、これだって妻子と話をしながら寝る前の準備をさせたりしながらやっている。就寝する前に、明日朝のご飯の準備もしてから布団に入る必要がある。

 

共働きであれば、女性にだけ家のことをさせてはいけない

通常、私が休職しておらず会社に勤務している場合、バランスは逆になっている。

ということは、妻は働きながらかなりの負担がかかっているということだ。

無論、それは重々理解しているつもりだが、こうして割合が逆転して体験すると、妻にかかる日頃の負荷が実感できる。

 

私は結婚を決める際に、ただの恋愛のゴールではなくて「人生の前半戦がいまいちうまくいかなかった、同い歳同士が生き抜いていくための共同戦線」という感覚があった(これは興醒めするかもしれないから、妻には言っていないけれど)。

氷河期世代の男女が、遅めの結婚をして、共働きで子供を育てていくのだから綺麗事ばかりは言っていられない。

 

そういうわけで、我が家では「気がついた方が家事をする」制が自然と導入されている。

明確な決まりはないが、それぞれが家事を担うことで少しでも生活を維持していけるようにという知恵だ。

 

令和の現在では、ほとんどのご夫婦はなんらかの形で共働きであろうと思われる。

共働きである以上は、正社員かパートかとかを別として、それぞれに仕事の負荷がかかっていることを前提にした暮らしをするべき、というのが私の考えである。

 

「平日夜、お父さんは晩酌しながらプロ野球中継を見ている」なんて時代ではないのだ。

「親父は週末はソファに寝転がって昼寝してるだけ」で済む環境にない。

女性も仕事をするイコール、男性は家事をしなければならない。

昭和までの生活様式、価値観ではもはや家事すら満足にできないのである。

 

共働きの世帯が、生活を維持していくために大事なこと

 

夫婦共働きで、家事はそれぞれが分担するべきだろうというのはここまでに述べた通りである。

夫婦が従来の価値観に囚われずに家事の負荷を分散させることで、少しでも時間を捻出したり予算を削減したりすることができる。

 

そして、もう1つ重要なことがある。

生活を維持していくためには、余裕が必要だ。

 

夫婦それぞれが、相手の事情を配慮してあげること、もう少し突っ込んだ言い方をすれば、不完全でも許すことが大事ではないだろうか。

 

例えば、最初に書いた通り、丸二日、私は家事をしなかったけれど、それについて妻は私を責めないでいてくれた。

今日はペットボトル回収日でもあったのだが、私が確定申告などでいくつかやりたいことがあったのでその余裕がないことを伝えると、理解してくれた。

義実家を畳む作業もかれこれ三日進んでいないのだが、妻はそれについて不満を述べたりはしない。

私には私の事情、スケジュールがあることを理解しているのだろう。

 

同様に、私が休職する前、妻が晩御飯の準備を全くしていない際にも、それを厳しく追求したりは(極力)していない。

日によっては「晩御飯はまた豚の生姜焼きですか」と思わないでもないけれど、もはやその準備をする分の余力しかなかったのだろうな…という察しがつくのである。

 

我が家では「他人が作ってくれた○○」というフレーズがある。

自分が動かないのに出てくる食事は、問答なく助かるという意味合いで使われている。

 

共働きで共同戦線をはった生き方を選んだ夫婦であれば、お互いに100%を求めてはならない。余裕を持つべきではないだろうか。

 

私自身まだ解決していない問題もある

 

ここまで、共働き世帯の家事や生活の維持について書いてきた。

走り書きなので全てのロジックがはまってるとも思っていないし、下手すればフェミニズム過激派からは色々つっこまれる可能性すらある乱雑な言いっぱなしだ。

だけど、家事は分担すべき、相手の不足を許す余裕が大事という考え方自体は、あまり大きく誤ってはいないはずだとは思う。

 

だが、未だ解決しない点が実はあって、子どもたちに伝え残していくべきものが、どうしても疎かになりがちという問題がある。

 

例えば、私の持論に沿えば食事は極力省エネルギーで手早く作れるものであればいい、ということになる。

そうすると焼き魚など調理後の清掃に手間がかかるメニューなどは、どうしても敬遠しがちになる。

 

先日、息子に塩サバを食べさせた際は、身のほぐし方や小骨の取り方などを教えながら食べたのだが…私自身が育ってきたことを振り返ると魚の食べ方なんて小学校に入る前には多少心得ていたような気がするのだ。

 

自分達が育ててもらった時と比べて、色々な場面で明らかに伝え残していくべきものが伝えきれていない部分が出てくる。

 

遊び方であったり、地域に伝わる伝統文化であったりも同様で、令和の現在、そして将来をいかに効率的に、なるべくセーフティに生きていくことを考えていると、本当は大事なものを省略しがちになる部分はあるんだよなぁ、という問題があって、それをどう解決するのかは、まだ私自身回答を見つけられないでいる。