健康のためなら、死ねる

黄昏が綴る、日々の雑記

日記にはコンテンツとしての価値はない

3年前の11月に職場復帰を果たして以来、思考を整理するかの如く次々と文章を書いた。その文字数たるや自分でも驚くほどの数にのぼった。 

今振り返ると、自分の中に感情や思考が霜降りの和牛のサシのように細かく分散していた。 

書くことによって自分のうちにあるものを吐き出し、パソコンの上で編集をされ続けていくことで私自身を再編集していたのだろうと思う。 

 

ちょっとしたブログの1か月分相当くらいの文字数ならばもう書いただろう…という分量のテキストを目の前にして、これが意外と活用されないままでいる。 

誰かの役に立つようなTIPSでもないし、かなりパーソナルな部分が大きいからなのだろうけど、何故、このテキスト達を再編集して1つのコンテンツに仕上げようかという気持ちにならないのか、という問題に自分なりの回答を得た。 

 

自分のコトバを最初に耳にするのは自分、というのはよく言われた話だ。 

これと同じように、自分が紡ぐ文章を最初に見るのは自分。 

 

既に2023年になり、忌まわしき年は既に過去のことになった。 

現在私が見据えているビジョンは、もうクラッシャー上司から連日パワハラされた日々や、限界を迎えて休職するに至った時点を見ていない。 

 「状態のよくない私」が書き残したものなんて、今の私とはちょっと一致しないんだよなぁという感じがある。  

 

私は自分語りが好きでたまらないのだけど、復職後に書き散らかした文章を改めて読む気になかなかなれないんだよなぁ…なんて自分でも思う日記を誰が好んで読むというのか。